【民度を考える】

 「民度」とは何でしょうか。広辞苑によると「人民の生活や文化の程度」とあり、国語辞典でも「国民・住民の生活状態、文明の進歩の程度」と書いてあります。私はこれをよくクラスに置き換えて話してきました。「国民・住民」を「クラスメート」にするとわかりやすいと思います。クラスの状態について「君たちの民度はどうか」と問う時、それは「クラスメートの生活状態や文化の程度はどうか」という意味になるのです。

 ですから、生活環境・学習環境が乱れているのは、民度が低い状態です。授業が成立していなかったり、教室がゴミだらけだったりすれば、まったく民度が感じられない状態ということになります。また、私はそれを意識のレベルとしても使ってきました。例えば、挨拶。民度の高いクラスであれば、自然と気持ちの良い挨拶が飛び交うでしょう。逆に挨拶一つない集団は大丈夫かなと心配になります。こういう場合、先生たちは「気持ちの良い挨拶をしましょう」と言うのですが、誰かに言われないとできないのは意識が低いのです。スポーツには必ずルールがありますが、勝ちたいという思いばかりが前に出てルールを破ったり、ルールは破っていなくても審判の見ていないところで暴言やマナー違反をしたりすれば、これは民度が低く、スポーツマンシップとはかけ離れたものになるでしょう。

 私が初めて顧問をしたのはサッカー部だったのですが、素人の私にとって最も苦労したのは審判でした。初めて練習試合で審判した時に、いくつか反則をとったのですが、笛を鳴らすごとにそのチームの選手は不満を態度に示すのです。試合の後半には身の危険を感じる場面もありましたが、引率していた自分のチームの生徒たちも同じように感じていたようですので、試合後はその学校から全員ダッシュで退散しました。これは民度のかけらもありませんね。民度を考えるということは私たちがきちんと成熟した人間であるか、と問うことと直結しているのです。

 いよいよ師走。テスト明けにはドッジボール大会やグローバルフェスティバルもあります。行事はもちろん、挨拶や掃除なども含め、今年の締めくくりとして愛徳学園の民度を総点検したいものですね。(校長 松浦直樹)