【全校朝礼でのひとこと】

 嬉しい話です。2学期終業式にこのブログで着帽日について触れ、その意味を皆さんに問いかけてみました(校長ブログ12/20参照)。先生方もそれぞれの立場や場所で語ってくれ、何よりも愛徳生が自分事ととらえてくれたことが大きな喜びです。もしかするとブログをお読みになった保護者の方が家で背中を押してくださったのかもしれません。とにかく先日の始業式の登校時は2学期終業式に比べて格段に着帽率がアップしていました。そこで放課後、担任の先生方に確認したら着帽率100%のクラスがあったのです。また、うっかり忘れてもせいぜい1~2名のクラスがほとんどということでした。やはりボールを投げればすぐに行動で返してくれる愛徳生と、そのご家族の姿に誇らしさと愛おしさを感じる新学期の始まりとなりました。

 

 今、私の手元に『愛徳新聞第59号』があります(倉庫からわざわざ出してもらいました)。日付は昭和62年6月20日(土)となっています。これは1987年。今から37年前のことで、このとき原稿を書いた愛徳生は高3なら24回生ということになります。その記事は、神戸のファッション業界で男性デザイナーの草分け的存在の中西省伍さん(故人)に直接取材して愛徳学園の制服の評価をいただいたものです。この時の記事には中西さんのこんな言葉が掲載されていました。少し引用します。

 「着るものが、その人間の精神に与える影響は想像以上です。…歩き方からことばづかいまで無意識のうちにがらりと変えてしまうのです。これだけでもいいかげんな服装はできないという意味がよくおわかりでしょう。」「その意味でも、制服は、あくまでもリファインされ、チャームなものでなければならないと考えております。」

 愛徳学園の制服を見ながら、感動のコメントが続きます。

 「皆さんの制服は、見たところ流行を超越しており、歴史と伝統の香り高いものです。」「ヨークのあたりに個性のある制服で、いかにもクラッシクな味がありますね。私は制服というものは、その学校の教育方針なり、建学の精神を訴えるものでなければならないと信じています。ですから、取締りに便利だからとか、経済的だからといった低次元の考えや、〇〇がはやるからそれに決めたという考えには反対です。なんの訴えもない制服には賛成できません。」

 最後は着帽した姿をしっかりとプロの目で見てこう結びます。

 「やはり、帽子をかぶった方がいい。カラーのあたりと調和して、全体としてのまとまりがありますから。この制服はこれで非常に完成されたものです。へたにいじらないでおくのがいちばんでしょう。」

 

 制服は、その学校の建学の精神が凝縮されており、その思いが形になったもの、かつ上品で人の心を引きつける魅力的なものでなければならないということで、これは私も常々考えていることでした。

 くしくも私は2学期の始業式で美学について話しました。見せかけの美しさではない美そのもの、いわば内面的な美は心から生まれるものであり、人としての生き方が美しさを生み出すのです。その話の中で、人の話を聞く姿勢や履物をそろえる心など具体的に話しました。

 昨日は着帽日ではなかったのですが、この洗練された完璧な状態の姿が見たいと思い、放課後全校委員会室に行くと、高2の小嶋ソフィアさん、高1の井手さん、中3の森山さんが一生懸命仕事をしていました。全校委員会室に帽子はなかったのですが、聞いてみると森山さんが笑顔で「ありますよ」と言って軽やかに教室に戻り、持ってきてくれました。そこで着帽用に髪を少し下でくくり直してもらい、せっかくだからカーディガンも脱いでもらい、背筋を伸ばして立ってもらいました。まあ本当に美しいこと。ヨークのカーブと帽子のそれが平行曲線で完璧な調和を認めることができました。1学期に三宮で行われた女子教育セッション(兵庫県の女子校だけの説明会)で制服を展示した時、ある伝統女子校の先生が、愛徳学園の制服を見て「ステキ」「かわいい」とうなっておられたのを思い出しました。

 

 中西さんの「美しいものには一夜漬けはありえない」という部分が心に響きます。制服をとおして、真に美しいものは取り繕ったものや見せかけではないという当たり前のことを再確認できました。そのようなことを寒い廊下で熱く語る私の話を全校委員の3人は深く頷き、制服の意味や美について何か悟ったような晴れやかな表情になっていきました。そして、少し誇らしいようにも見えました。今も変わらぬ愛徳生のこの姿を、中西さんに見ていただけたらどんなに素晴らしいだろうと思いました。(校長 松浦直樹)